日々の切れはし

平穏で静かで小さな発見がある。一見何と言うことはないこんな日々を積み重ねると人生というタペストリーが織り上がる。小さな日々の切れはしを誠実に積み上げていくことこそが幸せ。そして幸せになるための工夫、幸せのための時間を確保するための効率化、努力を精一杯。

今更ながら、わかったこと

 先日ウチの事情の大事件が起きて、「本当の幸せとは」を考えている。

 

本当の幸せとは、とても大事な人達と動物たちと楽しく限られた時間を大切に生きれること。

 

これに尽きる。

 

「モノ」でもないし「オカネ」でもない。

ただ、お金に関していえば、ある程度したいことを自由にできるような、そんな量のお金は必要。

 

夢中になって集めた着物を見ても、もう幸せにしてはくれなかった。

 

あんなに夢中になっていた歌劇も、楽しい気分で見ることができなければ、幸せではない。

歌劇に関しては、あの劇場に行ってたくさんの人の中で孤独を感じたり、傍若無人な態度に傷つけられたりしていたのは、幸せではない。

周りの観客の態度が気にならないほど夢中だった時代が幸せだったのであって、もう今ではない。

 

そう、幸せな時間というのは旬もあるのだ。

 

私は実家の家族が好きで、遠方だから頻繁には会えないが、会えるとなればお金に物を言わせてなるべく快適に贅沢にしようとしていた。

会って気兼ねない会話も、昔のような会話もとてもうれしかったけれど、実家の家族との幸せは、同居していた時に集約されていたのだ、と思い知る。

たまにあって会話をすることは、幸せを冷凍していたものをチンしているようなもの。

もちろん、幸せでないとは言えないが、純粋な幸せとは違うかもしれない。

それは、旧友との旧交をあたためた際もそうであった。その友達といたときは、とてものびのびと自由で楽しくて幸せだったけれど、しばらくぶりにあって、気が合うことはかわりがないが、やはり旬ではないのだ。

 

そして、今更ながら「しあわせの青い鳥」の「青い鳥」の意味を理解する。

私はこの年になるまで、「青い鳥」は鳥そのものを表せていると思っていたのだ。

ちがう、「本当の幸せ」とは一見価値がなさそうな身近の日常の中にある、

ということを書いているのだ。これを書いた昔の人はしあわせの本質をよく見抜いていた。物質文化の前のことだ。

 

間違いなく毎日のしあわせだった大切な猫が行方不明、それこそがしあわせの本当の意味を教えてくれた。

 

私は今まで何をしていたのだろう。

 

秋冬の水不足が恐怖で心配で(川に水がなかった)、春になり雨が沢山降り、水が豊富になって安心したり(私は雨を降らせることができるのか)

森林伐採で家が建っているのを見ては、ツバメや野鳥が気になったり(私がすべての土地を買い上げて自由にできる力があるのか)

 

大きくてどうしようもないことを心配して悩んでいた。

 

ああ、そして、心痛めるニュースを見ながら、「どうしたらそうならないか」を学ぼうとしていた。ある程度は避けることはできるが、もう最後の最後は、運と運命である、100%避けることはできない、何事も。心痛めるニュースを見てそれが自分のことのように思うHSP性格、余りそういうニュースをインプットしないようにしよう。

 

ブログもそうである、私は自分がなく、読むとその筆者の言動に左右されてしまう、その人が乗り移ってしまう、だから今回の事件も起きたといえる。

もうなるべくブログを読み漁るようなそんなことはやめよう。

 

人類の大罪はあるし、いつかはいつかはと思うが、

そのいつかまでは、毎日自分の本当に幸せだと思うことをして、家族と動物を大事にして一緒の時間を大事にできるように尽力して、いつかの日を人類全体で迎えたらよいのだ、とそう思えた。