日々の切れはし

平穏で静かで小さな発見がある。一見何と言うことはないこんな日々を積み重ねると人生というタペストリーが織り上がる。小さな日々の切れはしを誠実に積み上げていくことこそが幸せ。そして幸せになるための工夫、幸せのための時間を確保するための効率化、努力を精一杯。

静かな朝

 昨日は大雨だった。

こちらの地方にも警報レベルの大雨が降った。

なのに、そんな日に実に28年ぶりに大学時代の友人と会う約束をしていたのだった。

遠方から来て尚且つ簡単に休みを取れない友人だから、天候が悪いからとキャンセルもできない。(だから30年近く会っていないのだった。)

 

心 配はよそに、どちらも約束時間より早く着きすぎ、めいめい待ち合わせと別の場所で時間をつぶし、それでも時間より5分早く2人ともついた。

28年の歳月は全く問題なく、会うなり話は尽きず、お互いの子供の受験大学先、夢中になっているドラマ、目指しているミニマリストぶりまで、本当に同じだったのだ。

 

 元より、学科は違い、卒業後相手はお堅い公務員になり、こちらは転職を繰り返した挙句の外資系勤務、結婚した相手の属性も全く違うのに、

どうして、会った瞬間からシンクロが生まれていたのだった。

 

 長い年月を経て会う前夜、彼女の学生時代の話し振りや数々の一緒に過ごしたエピソードを思い出しながらも、きって全く違っているのだろう、なつかしさだけで会うようなものだ、と思っていたのに、

28年たっても、友達だった。

 

私の場合、友達と滅多に呼ばない、

そう、少し親しくなった人はもとより、ママ友ですら、「ママ」友、とわざわざ枕詞を付ける

正直、生涯、「友」と呼ぶのは、中高から大人に至るまでとても仲良くしていた1名と、そしてこの大学時代の友人なのかもしれない。

友は、生涯1名出来れば御の字だともいう。

 

彼女と過ごした昨日は、久々に、友達とはこういうものだったと思いだしたのだ。

私を自由にしてくれて、全部受け止めてくれて、文句は一切いわず笑い合える。

まぁ、年のせいか、お互いクスクス笑い合うことはあまりなかった。彼女から笑顔が減ったことは、それは年相応というものかもしれない。

そう、若いとは、若いだけで、取るに足らないことでも全部楽しい時期なのだ。

 

彼女と警報級の大雨の中を歩きながら、なぜか心が満たされていた。

 

そう、友達とは、一緒に集って話せる人だったのだ。

 

 会っている時、相手に気を使いすぎる位使ってしまう私は、人と会うのが疲れてしまうのだった。何を言えば、何をすれば相手が喜ぶのだろうということばかり考えてしまって、自分の楽しみは優先しない。相手が喜んでくれるのが満足だった。

 大体は聞き役に徹し自分のことをやっと話せるように空気が和んでからも、相手の反応が気になるのだった。相手が興味のない話題は注意深く避けたし、その話題がお気に召さなかったと気づいたらよく記憶しておいて、今後はその話題を極力持ち出さない、だから人と会うとストレスだったし、一人が気楽だった。

 

けれでも、本当は心の底を話して相槌を打ってもらいたかったし、ゆっくり話を聞いてもらいたかった、寂しがり屋の人間でもある。

 

ただ、彼女にだいぶ話せたけれど、生来性となっていた、自分を押し殺すところはまだ解放されず、話題をスムーズにするため少し嘘をついていた。もうそれは仕方のないことかもしれない。正直に言って傷ついた人は心を余程のことがない限りさらさない。

 

一方彼女はとても正直だった。正直だからこそ友達足り得たのかもしれない。彼女の背景も嘘をつかずに自分を受け入れてもらえる生まれだった。

そういえば、中高の友人もとても正直だった。

 

こうして迎えた今日の朝は、大雨があがって、涼しく静かだった。

 

私も、静かな心持ちだった。

心が充福されたのだろう。

 

さ、心の寂しさを埋めていた物たちの断捨離を始めよう。